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  • No : 9725
  • 公開日時 : 2024/01/30 09:31
  • 更新日時 : 2024/02/19 10:55
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スバルを知る「P-1 スバル1500」(旧:スバル博物館 より転載)

回答

■幻の名車 P-1 スバル1500
1954年(昭和29年)2月、かねてから自動車工業界への進出を意図していた富士重工業(株)は、中島飛行機時代の高度な航空機技術を生かして、「スバル1500」、試作時の呼称を「P-1」と呼ぶ6人乗りの小型乗用車を公開しました。

P-1は、国産初のモノコックボディを採用し、前輪はウィッシュボーン式独立懸架で、コイルばねと複動式オイルダンパーを組み合わせ、後輪は車軸懸架方式で、3枚板ばねと複動式オイルダンパーを組み合わせ、乗り心地と走行安定性に優れた乗用車でした。そのスタイルは当時、この車が街を走っていると、よく、 「これが国産車か」、などとささやかれたものです。

性能は、もちろん当時としては抜群のもので、この車が試作完成されてから、4年経過した1957年に行われた、運輸省の国産乗用車の性能テストでも、最優秀の成績を納めています。

P-1は、スバル360発表の5年前に、スバルの名を冠せられた車として既に試作完成されていたのですが、当時の市場、その他の事情から、実際には市販されませんでした。しかし、その洗練されたスタイルと高性能は、各界から絶賛を博し、後のスバル360、スバル1000の開発の礎としても重要な役割を果たすことになりました。
 
<SPEC>
全長 4235mm
全幅 1670mm
全高 1520mm
重量 1230kg
エンジン型式 水冷4サイクルO.H.V
排気量 1485cc
最高出力 55ps/4400rpm
最大トルク 11.0kg-m/2700rpm
懸架装置 フロント:ウィッシュボーン式独立懸架
リア:車軸懸架
 
 
■スバル1500試作ストーリー
乗り心地と走行安定性

P-1の試作にあたって技術陣が最大の課題としたことは、当時の国産乗用車に忘れられいた”乗り心地”と”走行安定性”でした。当時の国産乗用車は、すべてトラック並みの重い車体の上に前輪に固定懸架方式を採用しており、そのために生じる乗り心地の悪さや操安性不良の責めを、道路事情の悪さにカブせていたのです。たしかに当時の道路の悪さといったら大変なものでした。4年後の1956年に、招かれて日本の道路事情を調査したワトキンズ調査団でさえ次のように言っている位です。”およそ工業国としてかほどまでに道路をなおざりにして来た国は日本の他にない。日本はその経済状勢からして少なくとも年額1800億円(国民経済の2%)の道路投資を行わなければならない”

だからといって、富士自動車工業の技術者たちは、既存のメーカーの易きにつくことを潔ぎよしとしませんでした。道路条件にめぐまれていない国だからこそ、 より乗り心地もよく操安性にもすぐれた乗用車が必要なのだというのが技術者の考えでした。そういう車を作るために、軽くて丈夫なボディ、優れた懸架装置、 柔らかいスプリングなどの開発に挑戦したのです。しかしこれはなかなかの難題でした。乗用車と名のつくものを手がけるのは、全くの初めての経験でしたから、材料の選択ひとつをとっても迷うことが多かったのです。どんな些細なことにも論議をつくし、テストを重ねて、ひとつひとつを解決して行く方法しかありませんでした。

1953年10月、富士精密工業が開発したFG4A型エンジンを積んだ台車が完成し、寒風のなかテストが繰り返され、足まわりのメドをつけたころ、ボディ担当班苦心のモノコック・ボディも完成しました。
P-1の試作車4台(内1台はボディ試験用)が完成したのは1954年2月、試作にかかってからわずか1年4ヶ月という猛スピードでした。

早速報道関係者を招いて行った内示会での評判も上乗で、その垢抜けたスタイル、すぐれた性能と乗り心地は専門家の激賞を受けました。
 
二つのエンジン

ここにひとつの問題が生じました。それは旧中島飛行機統合の動きだったのです。1952年の「航空機製造法」が成立して以来、にわかに航空機工業再開への見通しが開けてきました。しかし、航空機を製造するためには、旧富士産業の第二会社1社だけの力ではとても足りません。また、自動車工業への進出を果たし航空機工業と自動車工業の二つを事業の大きな柱として企業体制を固めて行くことが、旧富士産業にとってもっとも良い方向であると思われました。
 
こうしたなか、”もう一度中島の仲間が集まて、一緒に飛行機づくりと自動車づくりに打ち込もう”という声が生まれました。
第一段階として、東京富士産業、富士工業、富士自動車工業、大宮冨士工業、宇都宮車両の5社の共同出資(資本金8億円)で富士重工業株式会社が誕生したのが1953年7月のことです。もちろんこの話は富士精密工業にも持ちかけられたのですが、当時の富士精密工業はブリジストン(株)の資本下にあり、その上プリンス自動車(株)との合併の話が進んでいるところでした。こうした事情で、富士精密工業との決別が決まり、FG4A型エンジンの供給も打ち切られることになってしまったのです。
 
このような事態を予期して大宮富士工業は独自にL4-1型と呼ばれるエンジンの開発を進めていましたが試作第一号機の組立が終わったのは、1954年夏も終わりに近い頃でした。大宮富士工業が試作したエンジンは、当時の国産エンジンには珍しいオーバー・スクエア・タイプ(ショート・ストローク)の優秀なエンジンで、ミッション部にアルミ合金を用いたりして軽量化(整備重量92kg)を果たしていました。FG4A型エンジンは慎重に作られた良いエンジンでしたが整備重量は150kgに及んでいました。
 
FG4A型4気筒OHVエンジン
排気量1484cc 最大出力48ps 最大トルク10.0kg-m
 
L4-1型4気筒OHVエンジン
排気量1485cc 最大出力55ps 最大トルク11.0kg-m
 
街を駆け抜けたP-1

1955年3月には、L4-1型エンジンを搭載した”P-1”が完成、3月31日には富士自動車工業最後の試走式を行いました。最後というのは翌4月には出資5社が富士重工業に吸収されるというかたちで合併は無事終わり、いよいよP-1は新生富士重工業の期待を担って走りだすことになったからです。
P-1の試作車は全部で20台作られました。そのうちの11台にはFG4A型エンジンが、残りの9台にはL4-1型エンジンが積まれていました。そして、 そのうち14台は自家用を兼ねてテストを続け、6台は群馬県の太田、伊勢崎、本庄などといった地元のタクシー会社に特別に販売し、約1年間事業用車としてのテストをしてもらいました。テストの結果はどちらも好評で、乗り心地の良さと、ボディ、足廻りなどの耐久性は内外のどんな車にもまさっていたのです。
 
■スバル誕生の秘密
すばる

富士重工業の期待を担って開発されたP-1でしたが、その中でも最も大きな期待を持って見守っていた人の1人に、初代社長の故北謙治がいました。北は自動車に関して一家言持っておりました。 それは、”自動車を作るなら本格的なものを作れ”ということと、”国産自動車には日本語の名前をつけるべきである”ということでした。ですから本格的な乗用車P-1についての関心は人一倍大きかったのです。

P-1の呼称を社内募集しようというのも北の発案でしたが、応募されたものは”坂東太郎””パンサー””フェニックス”などどうも思わしいものがなく、結局北自身が心の中に抱き続けてきた美しい日本語”すばる”と命名したのです。

”すばる”というのは牡牛座にある散開星団、つまり星の名前です。肉眼で見える星の数は6個から7個ですが、望遠鏡で見ると約250個の青白色星の集団です。西洋名プレヤデス、中国名昴(ぼう)、日本ではすばる、六連星(むつらぼし)とも呼ばれ、古事記、万葉集、枕草子などといった古い書籍にもその名前は散見します。富士重工業は五つの会社が一つに統合したことの意味を持つ、なかなかの命名でした。
 

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